2015/03/19

『ぼくを葬る(おくる)』(2005) 感想

余命三ヶ月を宣告されたゲイの男性の話。タイトルとポスターデザイン(裸の男性と赤ちゃんの写真)は時々目にしてたんですが、なんとなく展開が読める気がして(ごめんなさい(^^;))ずっと見ていなかった一本。見てみたら、思ったほどそういう感じ(?)ではなかったです。かといってそこから大きく外れるものでもなかったですが、うんざりはしなくて自然に見ていくことができました。(監督はゲイを公言しているフランソワ・オゾン。有名な方ですが、個人的には作品に特になじんでいるわけではありません。この作品はゲイ・カルチャーのセキララな描写等があり、レイティングはR-15です)



家族にも恋人にも事情を打ち明けられない主人公が、唯一打ち明けるのが祖母なんですが、理由は特別仲がいいからじゃなくて、「自分と似ているから」。あなたももうすぐ死ぬから、と面と向かって言います。それを受ける役を演じるのが、なんとジャンヌ・モローでした。年取ってもかっこいいおばあちゃんで、いかにもこの人らしい過去もある。この二人のシーンもすごくよかったです。単純に想像するような「祖母と孫」のシーンにはまったくなってなくて。モローの存在感ならではかも。この映画の見所のひとつだと思います。

主人公には同棲している恋人がいるんですが、これが「若い頃のマーク・ゲイティス」をホーフツとさせるルックスでした。セキララなベッドシーンもあるんですが、そこではそうは見えなくて、あとに落ち着いて話すシーンで初めてそう思ったので、動揺しなくてすみました。(笑)

全体的にわりと静かな映画で、いろいろいいシーンがありました。お父さんと車の中で話すシーンがとくに好きでした。みんなそれぞれに欠陥を抱えた人たちで、そこがリアルさをかもし出していました。こういうトーンも好きです。フランスの文化に詳しいわけではない自分ですが、フランスならでは、という部分も感じました。

…当然ながら自分は腐女子目線なのですが、最近リアルのゲイの方やゲイカップルさんについて読んだり見たりする機会が多くなって、個人的な見方が複眼的になりつつあります。変わったのではなく、追加追加です。

女性のファンタシー/エンタメとして、いい意味で「こんなやつぁいねえ!」も中に取り込むフィクションとしてのBL系作品から、リアル社会でのゲイ・カルチャーなどを基盤にしたアプローチ、そのさまざまな混合が、JUNE/BLっていうジャンルには含まれているとつくづく思う今日この頃。その中での「腐女子目線」で言うと、この映画ではリアルなゲイのR指定な側面(まぎれもなく人生の一部分)をかいま見る部分と、かつ主人公がハンサムで、病気になってもあまり汚らしく撮らない、つまり「美しい男性を鑑賞する」部分(ある意味映画として人の目を楽しませるお作法)、現実から一歩か半歩踏み出した映画ならではのエスプリヘテロとゲイの垣根を取り去ったシーンなどなどが共存していて、いろいろ参考になる所でありました。




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…最後に、とても自己中心的な視点でお恥ずかしいのですが……あるモチーフが、先日の新刊小説に入れたものとすっかりかぶっていて冷汗かきました。「同性愛」の流れで普通出てくるものではまったくなくて、作品のなかでの扱い方も違うのですが……J庭に来てる方はこの映画を見てる率が一般より高そうなので、「ああ、あの映画から持ってきたんだな」と興ざめになるんじゃないかと、ちょっと心配になりました。(ほんとに自己中心的なこと言ってお恥ずかしいんですけど、こういう誤解って書き手としてはちょっとクヤシイものなんです(^^;)。直接的に影響を受けたもの・参照したものはあとがきに書いたとおりで、ほかは題材とたわむれているうちに自然に出てきたものです)

そこを書くと自分の作品のネタばれになるので書きませんが、「ちょっと唐突かな?」と少し心配していた部分でもあったので、ありうることだと(少なくともリアルなトーンの映画で扱われる程度にありうることだと)確認できたのはよかったです。…でも、作品作ってるときって、こういう偶然がよく起こります。作ってる最中に「息抜きに」なんて見ていたら、あの要素は使いにくくなってしまうところでした。(「まねしてると思われたくない病」がわりと深刻なので、そうなってしまうんですよね(^^;))ある意味追い込み中にそんな余裕がなかったことに感謝☆