2015/11/12

『歴史とは何か』と"Here Dead We Lie"+歴史家とイヤミとセレンディピティ


『歴史とは何か』と"Here Dead We Lie"

ずっと書きあぐねていたE. H. カーの『歴史とは何か』のご紹介、なんですが、改めて書こうとするとすごく難しいことがわかりました。要約できないんです。Amazonの同著者の本のレビューにもそうあったので、自分の怠慢ではないと思います。(^^;)

「(歴史とは)現在と過去との間で交わされる、果てしない会話(対話)である」

ほんとに、エピグラフにお借りしたこれに尽きるんですが、これだけ取り出すとわかったようでいてイメージがあいまいで。具体的に説明するとなるともう、この本読んでくださいとしか言えないんです。(笑)

…なんですが、それを体感できる例がたまたま出ました。さっきツイッターのマーク・ゲイティス兄のページを覗いたら、第一次世界大戦の戦争詩をつぶやいていらしたんです。今日(追記・書いてるうちに日付が変わったので「昨日」)が一次大戦が終わった日、ということでつぶやかれたようです。1918/11/11に終わっています。我田引水ですがそれを貼らせて頂いて、それに絡めて「こんな感じ」な部分を書き留めてみたいと思います。

(あとに拙訳を添えます。たしか以前もつぶやいておられて、それで知った詩でした。第一次世界大戦で戦死した若者の気持ちで詠われたもので、作者はアルフレッド・エドワード・ハウスマンです)



僕らは死んでここに眠る
生まれた国の名を汚し
生きることは
選ばなかった

たしかに人の命など
大して惜しいものじゃない
だが若者には惜しいのだ
そして僕らは若かった

参照:THE WAR POETRY WEBSITE  -  HERE DEAD WE LIE  - The poem by A E Housman

"life"は「人生」とか「命」とか「世界」とか、いろんな意味を持っているので訳すのが難しい言葉ですね。もっと生きて人生も世界も経験したかった、という気持ちがどっと溢れてくるように感じます。茨木のり子さんの『私が一番きれいだったとき』も思い出しますね。そちらは二次大戦時を詠った詩ですが、いずれも若い命を、あるいは時代を、戦争で失った人々の気持ちを詠った詩です。

で、これをどうして「今」ツイッターでつぶやくのかということ、これを読んだ私たちが「今」どう感じるのかということ…そこが大事で、それが歴史なんですね。うまく言えないですが、たしかに「今」これを読まされることに(記念日だということは別にして)「意味」を感じるし、そこには私自身が感じる不安も投影されています。今ここでこの詩をお読みになった方々が感じられるものも、少しずつ違うビジョンや感情を伴っていて、かつ共通の部分もあると思います。

現在の目を通して過去をどう見るか、そしてどういう未来を脳裏に描くか、と、過去―現在―未来と一本につながった感覚を持つのが、歴史感覚というものなんですね。『歴史とは何か』の主張によればそうで、歴史家の仕事は決して過去の事実を編纂することではないそうです。(それは「材料にすぎない」とか)乱暴な言い方をすれば、歴史家とクイズ王の違いはそこなんだろうな、と思いました。、(もちろん歴史感覚を培ったクイズ王さんはいるとは思いますけれど)

歴史家とイヤミとセレンディピティ

自分は歴史家でもクイズ王でもないですけど、前にこの詩を読んだタイミングが昨年の一次大戦100周年のときで、ちょうど興味が出ていろいろ読みかじっていた時期でした。それがイアンさんの一冊目につながりました。創作をするときは、こういうセレンデイピティみたいなものの力が大きいといつも感じます。じつはこれが、『歴史とは何か』のなかでカーが歴史家さんの仕事の仕方を「普通はこう考えるようだけど…」と否定しながら紹介してるのと一緒なんです。皮肉にも小説なんかを書くならまだしも、みたいなイヤミを言われてるんですが(笑)、私はまさにカーがやってるのと同じことをしています。もしかしたらカーの言うとおりで、フィクションの作り方としては異端なのかもしれませんが、「自分は普通と違う」と思うのは逆に言うと自惚れだ、と感じるほうなので、まあ普通にけっこうあることではないか、と思っておきます。ちょっと長いですが引用します。どう思われますか?

…すなわち、先ず、歴史家は資料を読み、ノートブック一杯に事実を書きとめるのに長い準備期間を費やし、次に、これが済みましたら、資料を傍へ押しやり、ノートブックを取り上げて、自分の著書を一気に書き上げるというのです。しかし、こういう光景は私には納得が行きませんし、ありそうもないことのように思われます。私自身について申しますと、自分が主要資料と考えるものを少し読み始めた途端、猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。いや、どこでもそうなってしまうのです。それからは、読むことと書くことが同時に進みます。読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かになります。書けば書くほど、私は自分が求めるものを一層よく知るようになり、自分が見いだしたものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。恐らく、歴史家の中には、ペンや紙やタイプライターを使わずに、こういう下書きはすべて頭の中ですませてしまう人がいるでしょうが、これは、(.中略..)

しかし、私が確信するところですが、歴史家という名に値いする歴史家にとっては、経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような二つの過程が同時進行するもので、これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。意味も重要性もない糊と鋏の歴史をお書きになるか、それとも、宣伝小説や歴史小説をお書きになって、歴史とは縁もゆかりもないある種の文書を飾るためにただ過去の事実を利用なさるか、二つのうちの一つであります。 (『歴史とは何か』p.37-38)

…なんかすごいイヤミですよね。(笑)面白いことに、先日新聞では過去―現在―未来とつながったビジョンを描かず過去だけを見ることを「歴史家ならそれでいいでしょうが」と一刀両断して、ご自分の領域では違う、と書いてた方がおられました。なんか、引き合いに出すってそういうことになりがちなんでしょうかね。(笑)

それはともかく、コナン・ドイルせんせなんかもたしかに、事前にいっぱいノートを取ってから書いてると自伝に書いてました。(特に本来やりたかったという歴史ものの話でそんなことを書いておられました)それがやはり正攻法なのかな…とは思いますが…いや、事前にももちろん調べるんですけど、書き出してからあとの自分のフィードバックや「偶然の出会い」のほうが、影響の度合いが大きく感じるんですね…多少の下調べあればこそ、といえばそれまでですが(^^;)。まあ過程は自分が経験するだけであって、大切なのは出来上がるものの質ですし、いくら「何年も準備しました」と言っても言い訳にはならないですし、同時進行でやるのはかえって時間がかかることもあるので、それでどうこう、ということもないかもしれません。ただ、ちょっと気に入った本の著者にこんなイヤミを言われているのが気に障ったのでした。(笑)

カーはこの本の中で、歴史の本を読む前に、それが書かれた年代、そして歴史家自身についても知るべきだと書いています。歴史家は時代に属するもので、歴史の一部だからと。そういうわけで、今はカー自身の伝記(評伝?)が読みたくなっています。自伝は書いていないようです。(←追記・その後『危機の二十年』新訳版をゲットしたら解説で自伝に言及していたので、書いていたようです!著書の検索で見あたらなかったのでてっきりないのかと…改めてUKアマゾンでも検索しましたが見つけられなかったので、絶版で古書も流通していない???読めないとなるとすごく読みたいです…!!(^^;))伝記はカーの教えを受けたことがある方が書いたそうで、タイトルが『誠実という悪徳』。原書名が"The Vices of Integrity"なので直訳です。うわーなんかすごくそそる!❤

というわけで、いつも通りまとまりませんがこのへんで。